ペルセポリス
アケメネス朝ペルシアの王宮の跡、ペルセポリスの遺跡。
この遺跡は、イラン南部の古都シーラーズ郊外の砂漠のなかにあります。
ペルシア語では、タフティ・ジャムシッド。
ジャムシッドの玉座と名付けられた豪壮な宮殿の跡で、紀元前330年にアレクサンドロス大王によって焼き払われて廃城となった遺跡です。
アレクサンドロス軍は、征服した異民族に対して寛容であったことで知られていますが、アケメネス朝ペルシアだけは別だったようです。
アケメネス朝ペルシアの王宮の跡、ペルセポリスの遺跡。
この遺跡は、イラン南部の古都シーラーズ郊外の砂漠のなかにあります。
ペルシア語では、タフティ・ジャムシッド。
ジャムシッドの玉座と名付けられた豪壮な宮殿の跡で、紀元前330年にアレクサンドロス大王によって焼き払われて廃城となった遺跡です。
アレクサンドロス軍は、征服した異民族に対して寛容であったことで知られていますが、アケメネス朝ペルシアだけは別だったようです。
ギリシア系諸民族にとっては、古代ペルシアは天敵のような存在でした。
紀元前500年から50年余りにわたるペルシア戦争で、ギリシアの都市国家は大きな痛手を受けました。
アテナイをはじめ、ギリシア本土にもペルシア軍が侵入し、多くの都市が破壊されました。
その後のギリシアを二分したペロポネソス戦争も、ペルシアの干渉が原因でした。
アレクサンドロスは、ペルシア軍をメソポタミアのガウガメラで撃ち破ってペルシアに入ると、アテナイの仇をペルセポリスで討ったとでもいいましょうか、ダレイオス(ダリウス)の王宮に火を放ちました。
1931年に、シカゴ大学の調査隊によってペルセポリスの発掘が開始されたとき、遺跡の表面には厚さ
50センチもの灰の層が堆積していたといいます。
古代エジプトとの関係でも、ペルシア帝国は、紀元前525年から紀元前332年のアレクサンドロスのエジプト征服まで、2度にわたってエジプトを支配しており、アケメネス朝ペルシアは、東はインダス川から西はエジプトと小アジアまでを領土とした大帝国でした。
アレクサンドロスのエジプト征服は、古代エジプト人たちには、イスカンダール(アレクサンドロス)による解放と好意的に受け取られていました。
ここ数年、イランから数多くの労働者が来日しているわりには、ペルシアという国や民族について、日本人はあまり知らないようです。
イスラム教圏で中東の国のひとつですから、アラブと同一視している人もいるようですが、イラン人はもともとインド・ヨーロッパ語族系のアーリア民族。
人種的にはインド北西部の人びとに近く、アラブ人はセム系です。
文字は、アラビア文字に似ていますがペルシア文字を使用しています。
つまり、ペルシアとアラブでは、人も、言葉もまったく異なるのです。
イランもエジプトと同じような砂漠の国というイメージがありますが、中央部にはザクロス山脈、カスピ海の沿岸にエルブールズ山脈という、どちらも4000~5000メートル級の高山が続く山岳地帯があります。
同じ砂漠でも、岩の砂漠が多いんですよね。
60年代のイランは中東のオアシスと呼ばれていて、豊かで穏やかな王国でした。
イランの風土というのは、とにかく国土が広いですから、南北で大きく異なります。
南部から中央部の砂漠地帯、カスピ海沿岸の緑の平原、真夏でも雪が降る山岳地帯とさまざまです。
カスピ海沿いには日本と同じような水田地帯が広がっており、ブドウの産地には美味なワインがあり、信じられないような安い値段でカスピ海産のキャビアも食べることができるのです。
極楽のような国ですね。
1967年や70年当時、イランはアメリカの友好国でした。
大学生や軍人など、けっこう英語を話す人びとがいて国自体が開放的でした。
1979年、パフレヴィー国王がエジプトに亡命。
イランはコーランの教えにのっとったイスラム共和国に変わりました。
しかし、この革命のさなかに勢力拡大を狙ったイラクに攻撃され、10年近いイラン・イラク戦争を戦うことになったのです。
イスラム革命後のイランは、外国人、とくにイスラム教徒でない外国人には、旅するのに不便な国になってしまったようです。
長い戦争の影響と、欧米諸国からの禁輸措置のために経済も停滞・・・。
仕事を探しに大勢のイラン人が日本に流れ込んできたのはこういう理由です。
イランのイスラム教徒は一般にシーア派と呼ばれ、アラブ圏の多数派であるスンナ(スンニー)派に比べると、純粋志向が強く、その信仰は強固、激烈といわなければならないでしょう。
シーア派は、ムハンマド(マホメット)の死後、4代目のカリフとなったアリーが暗殺されたあとに、アリーの子孫のみを正当なカリフとすると主張した「アリーの一派」のこと。
イスラム圏全体では少数派ですが、イランではシーア派が絶対多数を占めています。
シーア派のイマーム(最高指導者)は、現在の世界は異教徒、なかでもキリスト教徒によって汚されていると説きます。
パフレヴィーも、イラクのフセインも、聖地メッカの守護者サウド家も、エジプトのムバラク大統領も、キリスト教徒の悪魔の国アメリカに魂を売り払った連中であるから、彼らと戦うのは聖戦であるというのです。
同じイスラム社会といっても、エジプトとイランではまったく違います。
宗教というのは、純粋であればあるほど、ほかの宗教との共存を許さなくなりますから困ったものですね・・・。

イスラムというのは、もともとの意味は「平穏に神に帰依する」ということですから、争乱を好まない宗教でした。
ムハンマドが聖戦を起こしたのも、メッカの商人たちに一族が迫害されたためで、最初から異教徒を攻撃したのではありません。
ムハンマドはすでに信じる神をもつ民族に、改宗を強制することはありませんでした。
しかし、シーア派のイマームたちによって指導されている現在のイランは、イスラム圏だけでなく、世界全体から孤立せざるをえない宗教ナショナリズムに覆われてしまいました。
湾岸戦争後、緊張緩和の傾向が少しずつ見えてきましたが、まだ、ぜひイランにお出かけなさいとすすめられないのが残念なところです。
しかし、イランに出かける人には、ペルセポリスまで行くのなら、その途中で古都イスファハンにも寄ることをすすめます。
テヘランからペルセポリスのあるシーラーズには飛行機もありますが、長距離バスを使って出かけるのが本当はおもしろいのです。
テヘラン―イスファハン間、イスファハン―シーラーズ間ともに400キロ程度の距離がありますが、夜行の長距離バスに乗れば、それぞれひと晩の行程です。
月の砂漠をえんえんと走る旅などというのは、イランくらいでしか経験できません。
途中のキャラバン・サライ(隊商宿)で飲むチャイの味や、砂の砂漠、低木の砂漠、岩の砂漠、ときには塩の砂漠の風景・・・。
生涯忘れがたいものに出会えます。

ペルセポリスは広漠とした廃壇という印象。
山の斜面を切り開いた広大なテラス(約450メートル×300メートル)に建てられた宮殿跡ですが、建造時のまま残っている柱は10数本しかありません。
大半の柱は途中で折られるか土台が残っているだけで、みごとに破壊されており、アレクサンドロス軍のペルシアに対する憎しみの凄さが伝わってきます。
レリーフなどがよく残っている接見殿の階段には、ペルシアが征服したさまざまな民族が朝貢する様子が描かれています。
また、ところどころに残る巨大な柱頭の飾りは、雄牛や鳥頭獣体のペルシア風のスフィンクス「ホマ」が彫刻されています。

ペルセポリス王宮の建設は、ダレイオス1世によって紀元前520年からはじめられ、その後、歴代の王たちによって増改築が続けられたようです。
ただし、王たちが暮らした王宮ではなく、新年の儀礼や、即位の祭典などが行われた儀礼の都で、実際の首都はメソポタミアに近いスーサに置かれていました。
紀元前6世紀から前4世紀の初めまで、オリエント世界はアケメネス朝ペルシアに躁躍されました。
そしてペルシア対ギリシアという対立図式を軸に歴史が進展しました。
古代ペルシア帝国の特徴は、覇権主義につきるように思えます。
すでに広大な領土を抑えていたペルシアがなぜ、数10年もかけてギリシアにまで攻め入ろうとしたのか不思議ですね。
小アジアのギリシア植民地を支配した時点で、束地中海の権益も手に入れ、経済的な面では戦争の目的は達していたはずなのですが、ギリシア本土侵攻作戦を続けます。

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